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月9「CHANGE」感想2回目──やさしさアピールの的外れ

 2ちゃんねるの「テレビ」の板に、このドラマの現実的誤りを指摘する書きこみがあった。するとすぐに「ネタ番組になにマジになってんの」と揶揄されていた。私が今から書くのもそれになるが、でもやはり書いておきたい。





 2回目は新人議員のキムタクが東上して初登院する回。
 父が東京に購入して使っていたという家に入る。ひとりぼっち。まずそれがへん(笑)。ひとがあふれていなければならない。飛行機事故で死んだ大物国会議員の後継ぎなのだ。しがらみは山とある。なのに「しーん」。ひとりぼっち。


 ひとりぼっちの家で、さてあすからどうしようというそこに他議員の秘書である深津がやってきて、あれこれ意見を言う。
 深津は大物議員寺尾聡の第三秘書あたり。第一秘書は風間杜夫、もうひとり事務所に男がいたと思うので、公設のふたりはそっちだろう。もうひとり公設の「政策担当秘書」ってのがおけるが、深津はそれか? 
 寺尾の考えを風間から伝えきき、当面深津はキムタクの秘書として活動することになる。という流れ。





 どうして脚本がこんないいかげんなことをするのかがわからない。
 国会議員は国費で公設秘書が二人まで認められている。もうひとり政策担当秘書がおける。つまり、ただで三人雇用できる。雇うのが当然。いや秘書を雇わねば議員の仕事はなにもできない。国会議員として活動できない。公設では足りず、自分で金を出して雇う私設秘書があと何人かいるのがふつう。



 国会議員を国から年に2500万円ももらえて、電車はタダで、いい商売だというひともいるが、実態はここから私設秘書を雇ったりするので、裏商売をしていないまじめな議員の内情は火の車が多い。そのことから私設秘書に家族を使ったりして問題になったりする。
 それはともかく、国会議員の仕事の基本は秘書。それだけは描くべきだ。秘書がいなければなにも出来ない。公設秘書3人に私設秘書2人がふつうだろう。
 なのにひとりもいず、他議員のをひとり借りるって(笑)。




 キムタクの父は現役の与党議員、しかも大物だった。富司純子の「議員の妻として三十年以上」と、「十八年前の一億円不正授受疑惑」からして、国会議員歴は二十年以上だろう。かなりの大物だ。それがベトナムの飛行機事故で長男とともに死亡。次男のキムタクが後釜になったという設定。



 だったら父の使っていたすくなくとも五人の秘書がいる。後継候補の長男が第一秘書だった。そのしたに四五人いたろう。
 地元利益誘導型の父親の後継なのだから、その引継のために父の秘書との打ち合わせが必要だ。ことわっても秘書は押し掛けてくる。自分達にとっても死活問題だ。東京の家は関係者や後援者で押すな押すなの賑わい、混雑、混乱でなければならない。

 常識的に父親関係の秘書が登場して仕事の引継ぎシーンが必要だろう。キムタクがそういうことが嫌いなら嫌いでいい。「ぼくはなにもかも自分でやりたい。父とは関係なくやりたいんだ!」とでも叫んで追いはらえばいいことだ。そのシーンが必要。そしてまたそれを挿れることはたやすい。

 なのにもうひっそりとした家でキムタクひとりぼっち。途方に暮れる小犬のよう。なんでこんないいかげんな脚本を書くのか。前回も書いたが、議員選挙の頂点にある国会議員を町会議員レベルで描いている。それはわかりやすくするためでもなんでもない。単に脚本家が無能でものを知らないだけだ。ひどすぎる。





 こういう場合、「だけどねあんた、キムタクファンが見る政治ドラマなんだよ。それをどうしろと言うの」と反論されたら、「まあ、それは……」となってしまうものだが、このドラマの場合、それはない。矛盾のないよう、誰もが納得できるよう、いくらでも出来る。簡単に出来る。それを脚本が雑でしていないだけだ。むろんそれをよしとしているプロデューサの責任でもある。



 その原因は設定が思いつきだからである。
「もしも35歳のキムタクが総理大臣になったら!?」の、「もしも」だけで「こりゃおもしろい」「うける」とばかりに始め、その設定に酔い、それを完成させるための努力をしていない。どんな絵空事も、絵空事であるからこそ、すこしでもリアリティをもたせるため、ほころびをすくなくする努力をせねばならない。それがフィクションを作るひと(=それで食っているひと)の使命だろう。

 そのためには、設定という小ブロックを綿密に緻密に積みあげてゆかねばならない。この脚本は、その辺に散らばっているそれらしき小ブロックをがばっと集めてきて雑に積みあげただけだ。だからもうそこいら中、矛盾だらけなのである。





 先日見て呆れた映画「恋空」と似ている。あれも若い女の作者(推測)が、セックス、妊娠、レイプ、流産、難病、死という、考えうるあらゆる冒険譚を「想像でてんこ盛り」にしたのはいいが、リアリティをもたせるための最低限の努力(下調べ)をしなかったため、ケイタイ小説として知識のない読者には受けたが、映画になり、一気に批判が噴出したのだった。



 それは原作とはべつに映画にも責任がある。原作が缺陥だらけでも映画にして儲けるだけの価値ある素材と判断したのなら、関係者がそのための努力をすべきだった。「原作ではお腹を押されただけで流産しているが、そんなことはあり得ないので、映画では階段から落ちるように修正された」とか、最低限のことはしているようだが。


 この映画も「CHANGE」と同じく、主演のふたりががんばっているので、脚本(この場合は原作か)の御粗末さが気の毒になった。





 そこいらから適当に集めてきたいいかげんなブロックに、「加治隆介の議」から盗んできたものがある。私は当初、もっともっと真剣に盗んでいるのかと思った。弘兼さんが怒るほどに。
 そうではなかった。らしきものをがばっと集め積みあげたブロックに、いくつか「加治隆介の議」があったというだけである。何も考えずに適当に盗んでいるだけだからプラスどころかむしろ矛盾を象徴するマイナスになっている。これじゃ弘兼さんも怒って抗議するどころか苦笑で終りだ。





 杉村太蔵のような設定だったらまだましだった。杉村は自民党が公募した衆議院比例制議員に応募した。立場は筑波大中退のフリーター。経歴もコネも実績もなにもない。当選するはずのない名前だけの泡沫候補だった。
 それが異常な小泉ブームで自民党比例の票が伸び国会議員になってしまう。
 当時、いつも行っている立ち食いうどん屋でインタヴュウを受け、「このぼくがですよ、いつもここでうどんを食っているフリーターのぼくがですよ、いきなり年収2500万の国会議員なんですよ!」と大はしゃぎしていたのを思い出す。



 彼のような立場の議員の右往左往を描くなら、まだわかる。杉村は秘書捜しで苦労したろう。なにひとつ縁故のない世界にいきなり飛びこんだのだ。しかしそれでも彼は自民党の国会議員である。自民党からすれば大切な議席のひとつだ。自民党の新人議員教育係が手取り足取り世話を焼き体裁を整えたはずだ。とりあえず党から奨められた政治に詳しい年輩者を第一秘書とし、親友や先輩を私設秘書としたことだろう。
 あるいはまた甘い汁を吸おうと寄ってくる害虫もあまたいたろう。いずれにせよ「大騒ぎ」なのだ。「誰もいずシーン」はない。



 杉村のような青年を主人公にし、フリーターから突如国会議員になってしまったドタバタを描くのならまだしも、キムタクは大物現役議員だった父の後釜である。それが誰もいない家でひとりぼっちのはずがない。いくら物語をわかりやすくするためとはいえ、こんなイージーな設定をする脚本家が信じられない。





 泉谷しげるをゲストに迎えてのやりとりもひどかった。
 泉谷は「猫屋敷」の主人として、近所から立ちのきを求められて困っているという設定だった。それが国会に陳情に来ているのがまず信じられない(笑)。入れるか? 議員会館に。これまた町会議員の話である。なんで国会に行くんだ、泉谷。町内の話だろう。



 与党大物議員達と会食予定のキムタクは、アポなしでいきなり事務所に座っていた泉谷の苦労話を親身になって聞くことにより遅刻してしまう。
 予定があるのだからと急がす深津に、キムタクは「でも話を聞いてあげないと」と言い、泉谷と長々と話す。それがやさしさ? 帰りに泉谷が言う。「おれの話、ここまで聞いてくれたのはあんたが初めてだよ」。それがひととしてのありかた? これで好感度アップ?



 これじゃ国会議員という自分の立場を判っていないただのバカである。国会議員失格、人間失格だ。小学校教師のときはそれでいい。だが最初はいやいやだったとしても、立候補し、当選し、国会議員になったのだ。だったらそこで心構えを変えねばならない。これではいまだに田舎の小学校教師のままである。なにも変っていない。進歩していない。議員失格である。

 いやいや、小学校教師としても失格である。物事の順序がわかっていない。キムタクのやったことは、「大事な会議のある日に、通勤途上で"崖っぷち犬"を見掛けたから、心配で離れられず会議を欠席した」ようなものである。教員としてもサラリーマンとして失格だ。こんなのが周囲にいたらたまったものではない。



 泉谷は「誰も相談に乗ってくれないからここに来てみた」というアポなしのまぎれこみ客だった。対して自民党大物議員は新人議員キムタクとの会食のために忙しいスケジュールを調整して集合している。前々からの予定だ。どっちを優先すべきか。キムタクのやったことは、社会人として失格である。
 なのにこの脚本家は、それを「大物議員との会食よりも、偶然まぎれこんできた庶民のことを心配し優先する心やさしさ」として描いている。アホな(笑)。



 キムタクと深津が料亭に駆けつけたとき、大物議員達は立腹して帰ってしまい、寺尾がひとりで待っている。
 この辺の小技も不自然。議員会館で深津がキムタクにつきそって急がせていたのだ。当然遅れて料亭に向かう前に情況を寺尾に確認し、すでにみな帰宅したことを知っているだろう。携帯電話があるのに、なぜいきなり駆けつけて廊下に平伏する。しかも第1回では、いつも歩きながら忙しげにケイタイで打ち合わせをしているほど忙しく切れ者の深津を描いているではないか。なぜこのとき、議員会館からも、タクシーの中からも連絡を取らない(笑)。これじゃ深津も秘書失格である。なんでこんなにいいかげんなのか。


 泉谷とのことを優先して大物国会議員達の会食をほっぽりだしたのはキムタクの決断である。ならなぜ平伏する。平伏するなら泉谷に事情を話し、遅刻せず行け。そこいら中、矛盾だらけ。





 そしてまたこの「町会議員的に相談に乗っていて会食に遅れたキムタクを、寺尾が好意的に評価する」というのがわからない(笑)。説教するのが筋だろう。なのに寺尾はそれを「権力に媚びないあたらしい感覚」と捉える。寺尾もまた新人議員からノウハウを憶えて大物になったひとだ。だったらキムタクのやったそれが町会議員的な落ち度であることを指摘せねばならない。



 キムタクのひととしてのやさしさを描くことは大事だ。既存のよごれた国会議員とはちがうと新鮮さを印象付けることもドラマのテーマだ。その方法、エピソードの作り方はいくらでもあろう。
 だが「大物国会議員連中との会食を反古にしてまで、立ちのきをせまられる猫屋敷の主人の相談に乗っていた」は、心やさしさのアピールにはならない。単にキムタクが物事の優先順位、ひととしてのありかたを理解できない、国会議員失格、社会人失格の証明でしかない。なんとも御粗末な脚本である。





「加治隆介の議」は、こういうことにも真正面から応えていた。弔い選挙に勝った彼に、鹿児島の支持者が父の時と同じく地元のことを訴えてくる。橋や道路を作ってくれと。今後も今まで通り頼みますよ、と。
 それに対して加治は、「自分は国会議員だ。国会議員とは国のことを考える議員だ。だからそれはしない。それらは県会議員の仕事だ」と応える。秘書達は蒼ざめる。それが本音でも、後援者に言う必要はない。支持者はどっちらけで帰って行く。

「加治隆介の議」は、彼の姿勢による今までの支持者離れと、志の大きさによるあらたな支持者の獲得を描いていた。それが弘兼憲史の考える国会議員の理想像であり、それを彼は自身の作品の中で実行していた。自分の描く世界のために、それを構成する小ブロックを、ひとつひとつ自分で作り、丁寧に積みあげていった。それが物語を作るひとの基本姿勢だ。



 対してこの脚本家がやったのは「猫屋敷の立ちのきについて熱心に話を聞いてやる国会議員」である。この脚本家は国会議員というものをどう考えているのだろう。
 おそらく彼にとって、大事な国会を、偶然見掛けた崖っぷち犬のことが心配で欠席するようなのが「真に情のあるひと」なのだろう。焼き肉を食いながら矢鴨に同情して泣くタイプか。
 政治に対する意見、ビジョンのまったくないひとのようだ。そんなひとが、こんな話題のドラマの脚本を書く悲劇。いや喜劇。

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 というところで思いついた。これ「暴れん坊将軍」だと(笑)。
 現実の将軍は国全体のことを俯瞰して考えねばならない。実態は飾り物であり周囲が運営していたとしても、とにかく最高権力者のあるべき姿は、高見から全体を見ることだ。
 ところが暴れん坊将軍というのは市井のどうでもいいことに関わっている。将軍のやるべきことは、国から疫病をなくし国民が健康に暮らせる施政をすることである。なのに暴れん坊将軍は、ハエタタキをもって町中のハエを一匹殺して粋がっている。もとを断たなきゃだめなのに。それがあんたの仕事なのに。


 それと同じ矛盾がここにもある。このドラマの脚本家は形だけ弘兼憲史作品から盗んだが、手本にしたのは「暴れん坊将軍」のようだ。



 展開は、不人気伊東四朗総理は辞任、「国会王子」として女性週刊誌等で騒がれ人気者となったキムタクを、寺尾が総理にしようと画策する、という展開になっている。早くしてくれ。私はそこに行くまでの設定がいいかげんなのに苛立っている。


 総理になってしまえば、まったく「現代版暴れん坊将軍」になるから、私も「ケチをつけるのは粋じゃない」と諦めるだろう。
「暴れん坊将軍」に当時の江戸の政治状況とちがうとまじめに抗議するひとはいない。なにしろ毎日のウンコですら羽毛を敷きつめた便器の中にし、その器の専門管理係がいたひとだ。さらにはめったに出掛けることのない鷹狩等に外出した際の尿瓶にも専門の係がいたひとである。日々、めったに出掛けることのない鷹狩の際の真鍮製(だったかな)の尿瓶の手入れが仕事なのだ。でも将軍のそれだからエリートのお仕事。おそろしく無駄の多い社会。そんながんじがらめのひとが好き勝手に町の長屋に出入り出来るかい。だから「暴れん坊将軍」にまじめに抗議するひとは野暮。早いところこのドラマもそこまで行ってしまって欲しい。そうすれば笑ってみられる。


 おそらく総理大臣になったキムタクは、この脚本家に従い、「猫屋敷」のようなことを次々とするだろう。概して言うなら「線路で動けなくなった小犬を助けるために百万人の通勤者に迷惑を掛けるようなこと」である。そして国民から絶讃を浴びる。「自分達と同じ庶民の痛みのわかるひと」として。百万人の迷惑は見ないようにして、小犬を助ける総理だけをアピールする。なにしろ脚本家がそれを「美」とし「善」としているのだから必ずやるはずだ。



 ひとは己の立場を鑑み、周囲の状況を判断し、学び、進歩し、変らねばならない。それが成長であり、まっとうなおとなである。
 国会議員になったのに未だに田舎の小学校教師のままであるキムタクはうつくしくない。ひととして悪であり、愚である。
 役者がみながんばっているだけに、脚本の御粗末さが気の毒でならない。

Comments

No title

想像通りのクダラン、ドラマであること、ようく判りました。
お体のために、これ以上、ご覧になられない方がよろしいかと。
所詮、・・・・ですから。

No title

そうですね。
月9見て体調悪くしたじゃ笑いものですから(笑)。

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